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ごまめの歯ぎしり

地味でも役に立ち、除草剤にも負けず世の中にはびこるよもぎ・・・。

私の『よもぎ』のこだわりは、反原発でした。

 ロシヤ語の「チェルノブイリ」を日本語に訳すと「にがよもぎ」よもぎのことです。
25年前、チェルノブイリ原発が爆発した時、私は4人目の真希がお腹に9カ月の妊婦でした。
4月26日以後世帯中に散らばった放射能の恐怖におびえました。小麦粉、チーズ、乳製品を
はじめ輸入品を恐れ、雨に濡れることも怖がりました。
それよりも、人間が制御できない核の恐怖(痛くの痒くもなく見えもしない、そして時間空間を超えて
いのちをむしばんでいく)に未来のない子どもたちを4人も作ってしまった想いに悩みました。

 6月3日に真希が生まれ、4人の子育てとリュウマチの母の介護に忘れておりました。
2年後のある日、四国の伊方原発がチェルノブイリと同じ出力調整実験をするという情報に
実験反対に立ち上がって出来たのが『よもつぐの会』でした。
よもつぐと言うのは、食をはじめとする暮らしの見直しを提案しながら、よもぎのように
世の中にはびころうという会です。

 それから、ヒロシマを学びました。核と人間は共存できないこと。世界中に『佐々木貞子さん』
はどんどん増えていることを伝えながら平和公園の碑めぐりガイドも致しました。
戦後すぐの1945年占領軍の下、朝鮮争終結まで『プレスコード』がひかれ、放射能の影響を
含め、ヒロシマ・ナガサキの本当の情報が隠されていたこと、そのために日本の中でさえ核の本当の
怖さが伝わらなかったと知りました。日米安保の下国策として原発を作り教育に介入までして
ヒロシマの平和教育をつぶしプルトニウムの確保と核武装に走ってしまったのだと、震える思いで
怒ります。プレスコードが無く本当のことが伝わっていたらこんなに原発を作ったりしなかったでしょう。

 核時代の始まりは、ヒロシマであり、グランドゼロはヒロシマだったのです。
その『ヒロシマ』のある日本が、インドやアジアに原発を輸出しようなどしたから、フクシマが起こったのだと
思います。
 3.11私は、とうとうやってしまった!間に合わなかった!という無力感に絶望してしまいました。
嘘しか言わないと分かっていても、夜通しテレビを消せませんでした。しばらくは、原発反対も言えず
毎日を賄うだけの動けない毎日でした。
 そんな中、4月1日我が家の座敷でレンチャンが生まれました。外国人には、福島第一原発が爆発してすぐ
80キロ圏内は退避命令が出ました。その中に、アメリカ人と中国人の自然分娩を望む若い夫婦が広島に避難していました。ホテルでの出産を断られ、お産をする場所を探しておりました。その日朝早くに、生まれそうだと
いう助産婦さんからの電話があり、受け入れました。
朝から産婦は、苦しみ、私たちは気遣いながら待ちました。その日の満潮は午後8時でした。津波により被災した若い夫婦の下に潮に導かれ、7時57分に女の子が生まれました。まさに『生ましめんかな』の感動でした。

※「生ましめんかな」は、栗原貞子さんの原爆詩。原爆投下の8月6日の夜、負傷者が避難していた暗い地下室 で、被爆者たちが気遣う中、重傷者だった助産師が命をかけ新しい命を生ましめたという詩です。
 死にまみれた絶望の中の生きる希望として世界中に有名な詩になりました。

 25年前の私が陥っていた不安の中に悩んでいる親子がフクシマにいるはず・・・
私の出来ることがあるはず・・・と動き始めました。
それから、南相馬市から避難してきて4人目の出産された方のお手伝いもわずかながら致しました。
私たちは、三たびヒバクしてしまいました。でも、絶望はしてはいけない!
今まで、核と人間は共存できない!とヒロシマの真実を伝え、言葉を選び気遣いながら必死に言い続け
きた反戦・反核そして、脱原発!でした。今だったら多くの人が素直に聞く耳を持ってくれるはずだと
信じます。
 私は、あれだけ国策として安全を言っていたのだからもう少しはコントロールの手段を、持っているのでは・・・と淡い期待さえ持っていました。
 25年前とちっとも変らず、原発はトイレのないマンションのまま、放射能は制御不能の散らかし放題!
あれだけ偉そうに安全を言っていたのに何ということでしょう。
このつけをどれだけ遠くの未来まで押しつけるのでしょうか!





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